HOME

ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』

岩波文庫[1905→1920=1989]

 

・【プロテスタント】16世紀はじめ、カトリック教会の改革を主張して皇帝に抗議。ルターから。以降、カルヴァン派などの改革派一般を指す。新教。

・【ルターMartin Luther 1483-1546:プロテスタンティズムの創始者。1517年、免罪符販売に抗議して『95か条の意見書』を発表、宗教改革の発端となる。

・【信仰義認説】:ルターの宗教改革の根本理念。人はその善行によって救われるのではなく、神が人を義(正しい)と認めることによって救われる。

・【カルビン主義Jean Calvin 1509-64:ルターの福音主義から出発。ジュネーブでの宗教改革。@真理は教会の権威的決定ではなく、『聖書』の啓示によるべきであり、A全知全能なる神の意志は不可知だとし、B救済に選ばれる者は神により予定され、その運命は変更できないとする。だが地獄への不安や自棄に陥ってはならないのであり、人間はC自己のためにでなく神の栄光のために、D神の召命=職業に従って禁欲と勤労に専心すべきである、Eこれを務める信徒に神は財産の管理権を与える、とする。ユグノー(仏1562-98ユグノー戦争)、長老派(スコットランド・英1560-)、ピューリタン(英1642-60にピューリタン革命)、ゴイセン(蘭1572スペイン領ネーデルランドにおける反乱→1642オランダ独立)などがこれに属す。

・【福音主義(evangelicalism):新約聖書の福音書(マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの4福音史家によるキリストの奇跡・生涯・教えを記した部分)に信仰の基礎を求めること。ルター派、カルビン派、再洗礼派、メソジスト教会などの立場。

・【再洗礼派(Anabaptists):小児洗礼を無効とし、成人に再度の洗礼を要求する新教の一派。ドイツ農民戦争(1524-25)で農民を指揮したミュンツァーがその中心人物。

・【イギリス国教会】1534-ローマ・カトリック教会から独立。プロテスタント諸派のなかではカトリックにもっとも近い。これに反発して、ピューリタン、メソジストが分離。

・【ピューリタン】16-17世紀イギリスのカルビン派。清教徒。

・【メソジスト(Methodist)】18世紀はじめ、ウェズリー兄弟(兄1703-91、が興したイギリス国教会内におこったキリスト教の一派。厳密な戒律と敬虔な信仰生活。オックスフォード大学内の「神聖クラブ」→新興工業都市の労働者階級へ浸透。)

 

 

第一章 問題

1-1. 信仰と社会層分化

◆宗教を受け入れる理由は何か

・「近代の大商工業における資本所有や経営、高級労働にかかわりをもつプロテスタントの数は相対的にきわめて大きい」(16)16世紀ドイツのプロテスタントは富裕な都市の人々であった。→「このように経済的に発展した諸地方が特に宗教上の革命を受け入れるべき素質をもっていたのは、どういう理由によるのだろうか。」(17)

・宗教改革は、教会の支配を排除したのではなく、別の支配に変えた。すなわち、家庭生活と公的生活の全体にわたる厳しく厄介な「規律」を要求した。宗教改革者たちが当時批判したのは、人々の生活に宗教の支配がなさすぎる、という点であった。(17-18)

→「当時興隆しつつあった市民的中産階級がピューリタニズムの……専制的支配を受け入れたのは、いったいなぜだったのか」(18-19)

 

【応答@】:一般論として次のようなことがある。少数者であり被支配者である集団の人々は、政治上有力な地位から閉め出されていく結果として、とりわけ営利生活の方向に向かうことになるのが常であり、彼らのうち有能な者たちは、政治活動で発揮することのできない名誉欲をこの方面で満たそうとする。

→しかし、プロテスタントの場合、支配的階層も被支配的階層も、両方とも特有な経済的合理主義に愛着を示した。その原因は内面的特質にもとめるべきであろう。(23-25)

【応答A】:カトリシズムはより多く「非現世的」で禁欲的なために現世の財貨には無関心な態度を取るから。(26)

→宗教的関心の厳しさという点ではプロテスタンティズムも同程度に非現世的である。(28)また、もっとも内面的な信仰の代表者は商人層からきわめて多く生まれた。(29)

【応答B】:青年時代の禁欲的教育に対する反動として資本主義的企業家が生まれた(30)

→プロテスタントにおいては、練達な資本主義的事業感覚と強烈な信仰とが同時に存在した。

 

 

1-2. 資本主義の「精神」

・「資本主義の『精神』」という概念を規定するためには、これを「直近の類、種差」という図式によって定義するのではなく、「歴史的個体」として、歴史的現実のなかから得られる個々の構成諸要素を用いて漸次に組み立てていく必要がある。(38)

→「歴史的概念構成」:特殊個体的な色彩をもつ具体的な発生連関。(39)

・【資本主義の精神】:近代西欧およびアメリカの資本主義の倫理的なエートス(45)「正当な利潤を『天職Beruf』として組織的かつ合理的に追求するという心情」(72)。→この心情が資本主義的企業の適合的な推進力となった。

 

◆規範の内面化としての精神

・ベンジャミン・フランクリンの説教:「時間は貨幣だということを忘れてはいけない。……」(40)→これは単なる処世術ではなく、独自の倫理である。これに違反することは「愚鈍」なだけでなく、「義務忘却」だとされる。(43)

→「一切の自然な享楽を厳しく斥けてひたむきに貨幣を獲得しようとする努力は、幸福主義や快楽主義などの観点をまったく帯びていず、……まったく超越的な、またおよそ非合理的なものとして立ち現れている。」(47-48)

→このような精神は、ニューイングランドでは資本主義の発達以前に存在した。これに対して南部の植民地経営は、営利を目的とした大資本家によって作られたが、そのような精神は未発達であった。(52)

・金銭欲という点では、資本主義の精神とそれ以前の精神とでは、変わりない。「中国の官吏や、古代ローマの貴族、近代では農場地主たちの貪欲は比較に絶したものだ」(53)

→ドイツに比べてイタリアでは、労働者の「良心的であること」のなさが、資本主義の発達を妨げてきたし、今日でもそうである。(54)→「内面的規範」の問題。

 

◆労働の伝統主義と「天職」

・【伝統主義】:報酬の多いことよりも、労働の少ないことの方を選ぶ。「できるだけ多く労働すれば一日にどれだけの報酬が得られるか、ではなくて、これまでと同じ報酬を得て伝統的な必要を充たすためには、どれだけの労働をしなければならないか」と発想する。→雇う側は、賃金率を引き下げて、労働者が同額の報酬を得るために前よりも余計な労働を余儀なくさせるようにした。(66)「民衆は貧しいあいだだけ、貧しいからこそ労働するのだということは、幾世紀を通じて信条となっていた。」(67)

→これに対して、技能的熟練労働や高度に鋭敏な注意力や創意を必要とする製品の製造の場合には、「勤務労働時間の間は、どうすればできるだけ楽に、できるだけ働かないで、しかもふだんと同じ賃金がとれるか、などということを絶えず考えたりするのではなくて、あたかも労働が絶対的な自己目的 ―― 天職Beruf ―― であるかのように励むという心情が一般に必要となる」。(67)「賃金とその額を勘定する厳しい経済性、および労働能力のいちじるしい向上をもたらす冷静な克己心と節制」が伝統的慣習を克服する可能性(68)

・資本主義的企業でありながら、依然として伝統主義的な場合もある。(71)

 

◆「資本主義の精神」の侵入

・その担い手は、向上しようと努力しつつある産業的中産者身分(73)

・「向上しえない者は没落せねばならなかった。厳しい競争が始まるとともに牧歌は影をひそめ、巨額の財産は獲得されても利息目当ての貸し付けには向けられずに、後から後から事業に投資され、のんびりした、気楽な生活は失せはてて、厳しい冷静さがそれに取って代わった。他の人々に遅れずに繁栄に向かう人々の場合には、消費を欲せずに営利を欲したからであり、古い様式に踏みとどまる人々の場合には生活を切り詰めなければならなかったからである。」(76-77)

・「決定的な転換を生み出したのは、通常、……厚顔な投機家や冒険者たち、あるいは端的に『大富豪』などではなくて、むしろ厳格なしつけのもとで成長し、厳密に市民的な物の見方と『原則』を身につけて熟慮と断行を兼ね備え、とりわけ覚めた目でまたたゆみなく綿密に、また徹底的に物事に打ち込んでいくような人々だったのだ。」(78)

【応答】:このような道徳的資質は、伝統から離脱する能力=啓蒙思想が基礎となっている、と人々は考えるかもしれない。(79)

→しかし、その基礎には、貨幣獲得を人間に義務づけられた自己目的=天職とみなす非合理的な見解がある。(82-85)啓蒙思想の実践的な合理主義は、イタリアやフランスのスタイルであるが、資本主義が必要とする「天職」という考えの地盤ではなかった。(93)

【問題】:では、天職思想や職業への献身はいかにして合理的な思考と結びついたのか。(94)

 

 

1-3. ルターの天職観念――研究の課題

Beruf, Callingには、「神から与えられた使命(Ausgabe)」という考えが込められている。この語が現在もつ意味合いは、ルターによる聖書翻訳の精神に由来している。(95)

→「世俗的職業の内部における義務の遂行を、およそ道徳的実践のもちうる最高の内容として重要視した。」(109)「修道院にみるような生活は、神に義とされるためにはまったく無価値というだけでなく、現世の義務から逃れようとする利己的な愛の欠如の産物だ、とルターは考えた。」(110)

・しかしルターは「資本主義の精神」と内面的な親和関係を持っていなかった。(115)「宗教的な意味における『召命Beruf』の思想それ自体は、帰結についてみれば世俗内的生活態度に対してさまざまな形を取りえた」(117)。ルター自身は伝統主義から離れなかったばかりか、伝統主義にますます傾いていった。(118)→宗教改革の当初から、各自の必要を越えた物質的利益の追求を恩恵のもとにないことを示している(121)。「ルターは結局、宗教的原理と職業労働との結合を根本的に新しい、あるいはなんらかの原理的な基礎の上に打ち立てるにはいたらなかった。……倫理の領域における新しい立場の展開は阻止された。」(122)

→その後のピューリタンやカルヴィニズム:「資本主義の精神」を生み出すが、しかし意図せざる結果として生み出すのであって、決して目的としたのではない(133)。改革者たちは、「『倫理的文化』を目標とする団体の創設者でもなかったし、また人道主義的な社会改革運動家やそうした文化理想の代表者ではなかった。彼らの生涯と事業の中心は魂の救済であり、それ以外にはなかった。」純粋に宗教的な動機からの帰結である。(133-34)

 

【課題】:「われわれが企図するところは、ただただ、歴史における無数の個別的要因から生まれ出て、独自の『世俗的な』傾向を帯びる近代文化の発達がおりなす網の目のなかに、宗教的要因が加えた横糸をある程度明らかにすること」である。

 

第二章 禁欲的プロテスタンティズムの天職倫理

2-1. 世俗内禁欲の宗教的基盤

◆禁欲的プロテスタンティズムの四つの担い手

@カルヴィニズム、A敬虔派(パイエティズム)、Bメソジスト派、C洗礼派運動から発生した諸信団。(138)

 

◆心理的起動力

・「重要なのは、当時の倫理綱要などで理論的にまた公的に説かれていた事柄ではなくて、……宗教的信仰および宗教生活の実践のうちから生み出されて、個々人の生活態度に方向と基礎を与えるような、心理的起動力を明らかにすること」(140-41)

・「もちろん、生活上ほかに好機を与えられぬ人々の、低賃金にもめげない忠実な労働を神は深く喜び給うとする見地は、[キリスト教の]ほとんどすべての流派の禁欲文献全体に浸みわたっていた。この点では、プロテスタンティズムの禁欲それ自体はなんらの新しいものももたらさなかった。けれども、……労働を天職と見、……ついにはしばしば唯一の手段と考えることから生じる、あの心理的起動力を創造したのだった。」(359-60)

 

◆歴史的現象の本質

@価値からの判断。恒久的に「価値あるもの」(144)

A歴史的経過からみて「因果的に意義のあるもの」。文化史的な影響。(144-45)

→ウェーバーはAの因果的要因を「心理的起動力」という観点から辿ろうとする。

 

◆カルヴィニズム:カルヴァンの予定説『キリスト教要綱』[1543]

16-17世紀、オランダ、イギリス、フランス。→この教理の歴史上に占める位置を検討する。

・「カルヴィニズムの信仰による個人の内面的孤独化の圧力」について(165)

・「……神のために人間が存在するのではなくて、あらゆる出来事は、……ひたすら高き神の自己栄化の手段として意味を持つにすぎない。地上の『正義』という尺度をもって神の至高の導きを推し量ろうとすることは無意味であるとともに、神の至高性を侵すことになる。」「我々が知りうるのは、人間の一部が救われ、残余のものは永遠に滅亡の状態に止まるということだけだ。」「ここでは[神は]永遠の昔から極めがたい決断によって各人の運命を決定し、……人間の理解を絶する超越的存在となってしまっている。」(152-54)

・この教説の結果:「個々人のかつてみない内面的孤独化の感情」(156)。牧師も助けえない、聖礼典も助けえない、教会も助けえない、神さえも助けえない。

→「古代ユダヤ教の預言者とともにはじまり、ギリシアの科学的思考と結合しつつ、救いのためのあらゆる呪術的方法を迷信とし邪悪として排斥したあの呪術からの解放の過程は、ここに完結をみたのであった。真のピューリタンは埋葬に際しても一切の宗教的儀式を排し、歌も音楽もなしに近親者を葬(ホウム)ったが、これは心にいかなる『迷信』をも、つまり呪術的聖礼典的なものがなんらか救いをもたらしうるというような信頼の心を、生ぜしめないためであった。」(157)

・「現実的で悲観的な色彩を帯びた個人主義」⇔後世(18c)の啓蒙思想(158)

・カルヴァン派の現世的な社会労働は、「神の栄光を増すため」になされる。(166)

隣人愛は、自然法によって与えられた職業という任務の遂行のうちに現れるのであり、その際、特有な事象的・非人格的な性格を、つまり社会的秩序の合理的構成に役立つべきものという性格を帯びるようになる。

 

◆カルヴァン主義において重要となる問題:確信を得る方法

・「……私はいったい選ばれているのか、私はどうしたらこの選びの確信が得られるのか、というような疑問がすぐさま生じてきて、他の一切の利害関心を背後に押しやってしまったにちがない。」(172)→ただしカルヴァン自身は自分を神の「武器」だと感じ、救われていることに確信を持っていた。ところが平信徒には、救いの確信が重要な問題となる。

【「内心の苦悶」を処理する二つの方向】(いずれもカルヴァンの立場をある程度変更する)→@「だれもが自分は選ばれているのだとあくまでも考えて、すべての疑惑を悪魔の誘惑として斥ける、そうしたことを無条件に義務づけること。」=「日ごとの闘いによって自己の選びと義認の主観的確信を獲得する義務」。ピューリタン商人に見られる自己確信に満ちた聖徒。Aそうした自己確信を獲得するためのもっともすぐれた方法として、絶え間ない職業労働をきびしく教え込むこと。職業労働によってのみ宗教上の疑惑は追放され、救いの確信が得られるとする。(178-79)

 

◆ルター派とカルヴィニズム

17世紀ルター派:神自身との「神秘的合一」を最高の宗教的経験として追求する。実体的な神感情、つまり信仰者の霊魂に神聖が現実に入り込むという感覚の追求。(182)

・これに対してカルヴィニズム(改革派)は、「神が彼らのうちに働き、それが彼らの意識にのぼる、――つまり彼らの行為が神の恩恵の働きによる信仰から生まれ、さらにその行為の正しさによって信仰がまた神の働きであることが証しされる、というわけなのだ。」

沂~済の確信の二類型:@自分を神の容器の器と感じること(ルター派)。A自分を神の道具と感じること(カルヴィニズム)(183)

・カルヴィニズムでは、結局、「神は自ら助ける者を助ける」ということになる。「カルヴァン派の信徒は自分で自分の救いを『造り出す』のであり、しかもそれは、カトリックのように個々の功績を徐々に積み上げることによってではありえず、どんなときにも選ばれているか、捨てられているか、という二者択一の前に立つ組織的な自己審査によって造り出すのだ。」(185)→このような思索過程をルターは「行為主義(Werkheiligkeit)」として非難した。(191)

・しかしこの「行為主義」は、中世のカトリック平信徒の日常生活と比べると独自の性質をもつ。カトリックの倫理は「心情倫理」であり、善行の非体系的な羅列にすぎないが、カルヴィニズムは組織にまで高められた「行為主義」を体系化していく。「人々の日常的な倫理的実践から無計画性と無組織性が取り除かれ、生活態度の全体にわたって、一貫した方法が形作られるようになった。……あらゆる時とあらゆる行為にわたって生活全体の意味を根本的に変革することによってのみ、自然の地位から恩恵の地位へと人間を解放する恩恵の働きを確知しうるとされた」(197)→デカルトの「われ思うゆえにわれあり」が新たな倫理的意味合いをもってピューリタンに受け入れられた。(197-98)

【カルヴィニズムの聖書至上主義】:旧約聖書を新約聖書と同一の権威をもつとした。理性的な性格、すなわち宗教意識の神秘的で感情的な側面の抑制という特徴は、旧約聖書の影響に由来している。(211-12)

・「生活全体の徹底したキリスト教化は、このようにカルヴィニズムが、ルター派とはちがって、倫理的な生活態度に押しつけた方法意識の帰結だったのだ。」(214)「ルター派の敬虔感情は、本能的な行為と素朴な感情生活の自然な活力を馴致しようとはしなかった。つまり、カルヴィニズムのものすごい教説に備わっていたような、あの不断の自己審査や一般に自己の生活の計画的な規制への推進力は生み出すことはできなかった。」(218)

・カルヴァン派と並んで、プロテスタント的禁欲の今一つの独自の担い手となったのは、洗礼派、16-17世紀における信団[バプティスト派、メノナイト派とりわけクエーカー派]である。(263)

・「宗教上の恩恵の地位=身分(status)」⇔「現世における被造物の頽廃状態」(286)

→この「身分」の保持は、懴悔や敬虔な行為ではなくて、「行状の確証」によってのみ与えられる。ここから、「恩恵の地位を保持するために生活を方法的に統御し、そのなかに禁欲を浸透させようとする起動力が生まれてきた。……この禁欲的なスタイルは、神の意志に合わせて全存在を合理的に形成するということを意味した。」(286)[この生活は]修道院ではなくて、世俗とその秩序のただなかで行われることになった。世俗の内部で行われる生活態度の合理化、これこそが禁欲的プロテスタンティズムの天職概念が作りだしたものだった。」(287)

 

◆西洋の修道士生活

・キリスト教的禁欲の合理的な性格は、カトリックの修道士にも、カルヴィニズムにも一様に顕著に現れている。(202)

・修道士生活の意義:「自然の地位を克服し、人間を非合理的な衝動の力と現世および自然への依存から引き離して計画的意志の支配に服させ、彼の行為を不断の自己審査と倫理的意義の熟慮のもとにおくことを目的とする、そうした合理的生活態度の組織的に完成された方法」(201)

沚理的な禁欲:一時的な感情に対して「持続的な動機」を与えること。形式的・心理的な意味における「人格」に人間を教育すること。(202)

气Jトリシズムの歴史的意義:カトリシズムの教義は、日常道徳を越える一層高いものであり、禁欲が個人を強く捉えれば捉えるほど、ますます彼らを日常生活から引き出す結果となった。(206)

 

◆敬虔主義

・【敬虔主義(pietism)】17-18世紀に、スコラ主義や俗化した教会生活に対して、正統的教会内におこった宗教感情の禁欲的、神秘主義的な反動。とくにルター教会で、シュペーナー、フランケが代表的。教理の上では保守反動的であり、新しい学問や文化に反感を持って禁欲的生活を復興しようとした。(哲学事典より)

→宗教の感情的側面が強調されたことが特徴的である。(225)「つまり、カルヴァン派信徒の理性的な人格が『感情』に傾くのを阻止していたあの『抑制』が弱められた」こと。(226)→敬虔派は、@感情が高揚して修道生活に向かう場合と、A世俗的職業の内部で一層職業道徳を強固にする場合と、二つの方向性をもっていた。(226-27)

・敬虔派は、カルヴィニズムのエートスがそれ以外のところに入り込んだものとして位置づけることができる。(235)「その[敬虔派の]宗教的礎石には、動揺と不安定をみるほかなく、カルヴァン派の頑強な徹底性に比していちじるしく遜色がある」(251)「敬虔派にあっては、……職業労働によって新たに獲得しようとした自己確信に代えて、あの謙遜(Demut)と砕かれた心(Gebrochenheit)が理想とされたため、その生活の合理化の強度は、カルヴァン派に比して、どうしても弱められるほかなかった。……現在における内面的な感情の昂進に宗教的欲求の目標をおく態度は、改革派の『聖徒』たちがもっぱら来世に目標をおく救いの確証への欲求に比べれば、世俗内的行為の合理化の推進力という点で、一つのマイナスを含むことはきわめて明らかである。」(251-52)「結局のところ、純粋の感情的敬虔派は、……『有閑階級』のための宗教的遊戯なのだ。」(253)

 

◆メソジスト

・「単に感情的なものはすべて欺瞞のおそれがあると考えたカルヴァン派とは反対に、恩恵のうちにある者が抱く、純粋に感情的な、直接的な聖霊の証しから生じてくる絶対的な確信――その発生は少なくとも通常は時日を確かめうるとされた――を、原理上救いの確かさのただ一つの確実な基礎だと考えた。」(256)

→「われわれの観点からするならば、メソジスト派は、敬虔派と同じく、その倫理的基礎が揺れ動いている、ということになる。」(261)

 


 

2-2. 禁欲と資本主義精神

◆バクスター

・「天職理念のもっとも首尾一貫した基礎づけを示しているのは、カルヴァン派から発生したイギリスのピューリタニズム」であり、その代表者はバクスター(1615-91)である。

1642-60年のピューリタン革命において精神的な支柱となった。

【教え】:「道徳的に真に排斥すべきであるのは、とりわけその所有の上に休息することで、富の享楽によって怠惰や肉の欲、なかんずく『聖潔な』生活への努力から離れるような結果がもたらされることなのだ。」(292)「したがって時間の浪費が、なかでも第一の、原理的にもっとも重い罪となる。……その失われた時間だけ、神の栄光のために役立つ労働の機会が奪い取られたことになるからだ。」(293)「労働は神の定めたもうた生活の自己目的である。……労働意欲がないことは恩恵の地位を喪失した徴候である。」(304)

・比較@:トマス・アクィナス[1225-74]では、労働は生活維持に必要である、とされるのみ。当時の通俗的神学では、修道士の「生産性」は祈祷と聖化合唱であるとされる。(305)

・比較A:ルター派では天職は「適従し甘受しなければならない聖慮」であり、「地位と限界のうちにかたく止まることが宗教的義務」であったが、バクスターの場合、神の栄光のために働けという誡命となる。(306-07)

【バクスターの職業論】:『確定した職業でない場合は、労働は一定しない臨時労働にすぎず、人々は労働よりも怠惰に時間を費やすことが多い。』『そして彼(天職である職業労働にしたがう者)は、……規律正しく労働をする。……「確実な職業」は万人にとって最善のものなのだ』。(308-09)

 

◆ピューリタンとその他の倫理の比較

ピューリタニズムの性格

対比されるもの

確定した職業のもつ禁欲的意義の強調→近代の専門人。醒めた市民的「自力独行の人」(317)

@領主・貴族の道徳的弛み

A成り上がり者の成金的な見栄

合理的・市民的な経営と、労働の合理的組織。(320)

政治や投機を志向する「冒険商人」的資本主義。=ユダヤ教の賤民資本主義

資本主義の英雄時代(324)

 

反権威的な、国家にとって危険な、禁欲的な、私的集会。(329)

王制的・封建社会はこれに対して、「享楽意欲」ある者を保護し、日曜日にも礼拝時間のほかは民衆的娯楽が法律上許されるようにした。(ジェームズ一世1603-25在位。ピューリタンを弾圧。)(328)

合理的な禁欲

貴族的な遊戯であれ、庶民が踊りや酒場へ行くことであれ、職業労働を忘れさせるような衝動的快楽。(329)

ルネッサンス的教養がある。他方で、呪術や儀式に対する憎悪。クリスマスの祝祭までも迫害した。(330-31)小説は時間の無駄。「無駄話」、「余計なこと」、「虚しい見栄」、といった概念の使用。(332)

純粋に芸術や遊戯のための文化財の悦楽。

被造物神化の拒否→身に着ける装飾品における、生産の規格化、生活様式の画一化(332)

 

奢侈的消費の圧殺。利潤の追求の合法化。(342)

所有物の無頓着な享楽

「貪欲」「拝金主義」の排斥。(344)禁欲は、つねに善を欲しつつ、つねに悪を作りだす。

@純粋に衝動的な物欲。A富裕になることを究極的目的として富を追求すること

禁欲的節約強制による資本形成。莫大な富・資本蓄積欲と、簡素な生活。(345)

 

厳密な規律と自制によって自己を統御し、形式的な倫理的規制に身を委ねようとする性格。(346)

ありのままの素朴な人生の喜びを味わおうとする性格:準貴族地主層。

北アメリカで労働力でもって栽培農場を作って、封建貴族的な生活をしようとした冒険者たち。

市民的営業道徳

ユダヤ的エートス。大資本家の特徴をもつ「廷臣や投機的企画者」:ピューリタンは彼らを信用のおけない人々として彼らとの共同を一切拒否。(361)

 

 

◆ピューリタニズムから経済人が発生する

・「ピューリタニズムの人生観は、……市民的な、経済的に合理的な生活態度へ向かおうとする傾向……に対して有利に作用した。そして、そうした態度のもっとも重要な、いや唯一の首尾一貫した担い手となった。ピューリタニズムの人生観は近代の『経済人』の揺籃をまもったのだった。」(351)

・「こうした強力な宗教運動が経済発展に対してもった意義は、何よりもまず、その禁欲的な教育作用にあったのだが、……それが経済への影響力を全面に現すに至ったのは、通例は純粋に宗教的な熱狂がすでに頂上をとおりすぎ、神の国を求める激情がしだいに醒めた職業道徳へと解体しはじめ、宗教的根幹が徐々に生命を失って功利主義的現世主義がこれに代わるようになったとき、……孤立的経済人が姿を現したときであった。」(355)

 

◆価値と断念

・「近代の職業労働が禁欲的性格を帯びているという考えは、決して新しいものではない。専門の仕事への専念と、それに伴うファウスト的な人間の全面性からの断念は、現今の世界ではすべて価値ある行為の前提であって、したがって『業績』と『断念』は今日ではどうしても切り離しえないものとなっている。……市民的生活スタイルがもっこの禁欲的基調を、ゲーテもまた……ファウストの生涯の終幕によって、われわれに教えようとしたのだった。彼にとって、この認識は、ゆたかで美しい人間性の時代からの断念を伴う、そうした訣別を意味した。……ピューリタンは天職人たらんと欲した ――われわれは天職人たらざるをえない。」(364)

 

◆最後の有名な一節

・「今日では、禁欲の精神は、……この鉄の檻[機械的生産条件に結びつけられた近代的経済秩序]から抜け出てしまった。ともかく勝利をとげた資本主義は、機械の基礎の上に立って以来、この支柱をもう必要としない。……『天職義務』の思想はかつての宗教的信仰の亡霊として、われわれの生活の中を徘徊している。そして、『世俗的職業を天職として遂行する』という、そうした行為を直接最高の精神的文化価値に関連させることができない場合にも ―― 逆の言い方をすれば、主観的にも単に経済的強制としか感じられない場合にも、―― 今日では誰もおよそその意味を詮索しないのが普通だ。営利のもっとも自由な地域であるアメリカ合衆国では、営利活動は宗教的・倫理的な意味を取り去られていて、今では純粋な競争の感情に結びつく傾向があり、その結果、スポーツの性格を帯びることさえ稀ではない。将来この鉄の檻の中に住むものは誰なのか、そして、この巨大な発展が終わるとき、まったく新しい預言者たちが現れるのか、あるいはかつての思想や理想の力強い復活が起こるのか、それとも、――そのどちらでもなくて ――一種の異常な尊大さで粉飾された機械的化石と化することになるのか、まだ誰にも分からない。それはそうとして、こうした文化発展の最後に現れる『末人たちletzte Menschen』にとっては、次の言葉が真理となるのではなかろうか。『精神なき専門人、心情のない享楽人。この無のもの(Nichts)は、人間性のかつて達したことのない段階にまですでにのぼりつめた、と自惚れるだろう。』(365-66)「ただしここまでくると、われわれは価値判断や信仰判断の領域に入り込むことになる。」(368)